2017.3.11を過ごして新しくわかったこと
なんか、2017.3.11を一日過ごして、
生きてることって
仮定した、やってみた、わかった
わかったで育んだ土壌に
新しく仮定した、やってみた、わかった
をする繰り返しなんなと思った
あと、
なにかが起きた、どう思って(仮定)、
なにをした、そこからなにがわかった
を繰り返すでもある。
3.11 は、想像し得ないくらいの、めっちゃデカい事が、もの凄く多くの人に起きた
そこから、それぞれがなにか思って
なにかして、なにかわかってる(残ってる)
失った事、悲しい事だけじゃなくて
新たに得て残せてる事は本当に多い
3.11をこれからも毎年迎えて
黙祷して、そのときの事を思ったり、誰かと話したりして
その時の自分だから分かることを得ていく
今まで黙祷は、"祈り"とか、"念"とか、そういう類のものだとしか思って無かったんだけど
昨日の私が黙祷したときには
「あぁ、黙祷って楔のように、その時の事を一瞬でも考えて、なにか分かる(得る)ことなのかも」
という、いまの私だからみつけられた新しいわかりがあった
3.11って、失ったこととか悲しいこととか
日本で生活する大きな不安とかだけじゃなかったんだよな、と思った。
絶望するでなく、得てるものをみつめて、そしてまた生きるを続けられるといいな